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致し方ないとはいえ。。。 [日々のこと]


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「満月動物園」で検索すると、サブ項目(?)的なところに「丸尾丸一郎」と出てくることに気がついた。(クリックすると『レクイエム』の特設サイトにつながる)

検索エンジンが勝手に決めはるので、致し方ないんだけど、いまいち腑に落ちない。

だいたい、その上の『満月動物園 満月動物園』てなんだ?(クリックするとブログページにつながる)

なんか、丸尾くんごめんという気持ちと、もっと頑張らななぁという、なんとも言えない気持ち。



悲しみを悲しみのままに共有する [日々のこと]

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満月動物園×グリーフタイム×仏教『悲しみのための装置2018』のご予約受付が始まりました。

構成をあれこれ考えているのですが、優しさは時にヒリヒリするよなぁ、ってことを考えています。優しいってちっともヌルくない。ヌルかったらそれはヌルいんであって、優しいってこととは別次元の話だな、と。
厳しけりゃイイなんて言ってませんよ。

『悲しみのための装置』というタイトルは旗揚げ3作品目に使ったタイトルです。

その頃に掲げていた文言は『20世紀を怒りの世紀と総括するなら、21世紀は悲しみの世紀になればいい。悲しみを怒りに転化させて共有するのではなく、悲しみを悲しみのままに共有する。そんな世紀なればいい』みたいなのでした。

ちょうど21世紀になったばかりで、20世紀を戦争の世紀と総括するような言説が溢れていました。その頃のボクはとにかくパレスチナが平和になればいいなと考えてました。

21世紀も20年が過ぎようとしていて、実際はどうかと言えば怒ってばかりのようです。ボクも怒りっぽい方なんで、偉そうなことは言えませんが。

ですが、最近とみに思うのは、怒りであれ悲しみであれ、感情は行き過ぎればそれ自体が快楽になり得るということです。これは非常に危ない。酔うな、という話ですね。中庸が大切です。

仏教に貪瞋痴(とんじんち)という言葉があります。wikipediaで引くと、「人は痴か(おろか)だから、貪り(むさぼり)、瞋る(いかる)」と解説されてましたが、ボクが最初に聞いた解説は「貪りの心が、瞋りの心を呼んで、痴かな行動を取ってしまう」というもので、ボク的にはこちらの方がしっくり来ます。

たとえば、良く思われたい(貪り)から、なんで良く思ってくれないんだ(瞋り)となり、変なことしちゃう(痴か)。みたいなメカニズムはよく分かる。

あれ? なんか変な方に行っちゃったな。

悲しみを悲しみのままに共有する『悲しみのための装置』は、いまだ発見されていないと思うんです。悲しみを「なぜ分かってくれない」という「貪り」の方向に向けてばかりで、瞋り、そして痴かなことばっかりやってるように見えてしまう。

いや、あるいは本来、宗教はその機能、悲しみを悲しみのままに共有する機能を持っているのかもしれません。のほほんと生きてるボクが見落としてしまってるだけで。

その辺は、当日、秋田住職の読経の声とご本尊のお姿の中に確かめてみてください。(一瞬にして秋田住職に「宗教」のすべてを背負わせるという無茶振り)

それからトークシンポジウム「グリーフケアとしての伝統仏教」もゼヒご参加ください。住職が本気出してます。

「伝統仏教」なんて言葉にすると簡単ですが、エラ長い話なワケで、でも人ひとりはそんなに長く生きられるワケでもなく、時代の要請に応えながら、常に『原点回帰』も意識せざるを得ないという世界に身を投じている方たちの生の報告です。


もちろん、宗教全部がそうだなんて思いませんし、「変な宗教」と感じられるものからは全力で逃げましょう。

そういえば、大学生の頃に天王寺の大きな歩道橋で勧誘された時、「信じたらなんでも解決します!」みたいなことを仰ってて、ヒマだったんでひとしきり聞いてあげてて、最後に『そんな都合のいいモノありませんよ』と言ったら、その方が急に真顔で「やっぱりそうでしょうか?」と言うので『はい』と言っておいたことがありました。あのお兄さんどうしてるかな。


こんなに世界には『怒りのための装置』が氾濫してるのに、いまだ影も形も見えてこない『悲しみのための装置』がなんなのか。

少しだけでも、その片鱗に手が届くんじゃないかと思っています。

そのために、素晴らしい俳優陣が集まってくださいました。たぶん、これまで見たことないお姿、お声、表情を間近に感じていただける、意外に得難い機会になると思います。

俳優さんたちも、こんなふうにテキストに向き合う体験自体がなかなかないでしょうし、お客さんが目にする機会もないと思います。きっと見たことない魅力を発見できる舞台になると思います。


◉グリーフタイム×演劇×仏教
日程:2018年1月21日(日)
場所:浄土宗應典院
http://fmz1999.com/



満月動物園×グリーフタイム×仏教


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来年の1/21に『グリーフタイム×演劇×仏教』という催しをすることになりました。

その中で、「満月動物園×グリーフタイム×仏教」と題して『悲しみのための装置2018』という作品を上演します。

もう、どこから紐解けばいいのか分からないくらいに、ボクのこれまでが凝縮された催しです。

とはいえ、さすがに應典院との出会いとかから紐解くとエライことになるので、まずは「グリーフタイム」との出会いから。

『グリーフタイム』を主宰される宮原さんに引き合わせていただいたのは、應典院前主幹の山口さんでした。

『グリーフタイム』は應典院で2009年から自分のグリーフに向き合う時間として開催されてきました。山口さんの言い回しでは「泣き場をつくる」重要性のようなことを仰られていたように思います。

グリーフというのは、大切な人やモノを失うことによる反応やその過程のことを言って、悲嘆などと訳されることが多いようです。

ボクはかろうじて舞台演出は専門と言えなくはないですが、なにをとっても専門家ではないので、グリーフの正確なところは、ぜひ『グリーフタイム×演劇×仏教』の朝一番に開催される「グリーフの基礎知識講座」に来てみてください。

「グリーフの基礎知識講座」をやってよと宮原さんと佐脇さんにお願いしたのもボクなのですが、これは先だって應典院の『いのちと出会う会』にお二人がゲストとして来られた際に、最初にグリーフに関するカンタンな説明をしてくださったのに非常に感銘を受けたから。

グリーフというか、「悲しい」という感情に対して、こんなに科学な話を聞いたのは初めてでした。

『ああ、こういう反応(行動)をとってしまうときにも、根っこには「悲しさ」がある場合があるのか』という気づきは、なんて言うか、自分の感情を「悲しい」とひとくくりにしてしまっているんじゃないか、という気づきでもありました。

「悲しい」を起点に様々なことが見えてくる思いでした。

宮原さんも佐脇さんも控えめな方なので、『いのちと出会う会』ではサラっとだけお話しいただいたのですが、ぜひ一般向けにカンタンな「グリーフの基礎知識講座」をやってほしいと、お願いしたのです。

「悲しさ」の反応として、怒りや罪悪感・無力感を抱くことがある、というところまではなるほどと思わなくないのですが、安堵感を抱くこともあるというのは目から鱗でしたし、それが専門家界隈では類型化されているということは、決して特別な例ではないんじゃないかと。


早速さっくり話が逸れましたが、山口さんに宮原さんをお引き合わせいただいたのは、宮原さんが『グリーフタイム』のあり方について模索されている中で、「それは演劇の人と話してみては?」という山口さんのご配慮だったようです。

山口さんの應典院主幹退任パーティでのことで、その場で宮原さんからサラっとおうかがいしたお話しで、「それは演出家でも脚本家でもなくて、俳優から話を聞くのが一番参考になると思いますよ」とお返事しまして、それから1ヶ月に1回程度の頻度で、満月動物園の俳優たちとボクと宮原さんとの対話が始まりました。

途中から、「グリーフタイム」を宮原さんと一緒にやってられる佐脇さんも加わっていただけるようになり、應典院寺務局の皆さんにも加わっていただく中、ゴールも目標も定めない対話の場を積み重ねました。


この『ゴールも目標も定めない場』というのが、元々、メッチャ苦手だったのですが、應典院でのさらに遡る「当事者研究×仏教」プロジェクトに参画させていただいたことが、大きな経験になっていました。

そう言えば「仏教と当事者研究」プロジェクトに誘ってくださったのも山口さんだったなぁ。ボクは「新書を朗読したいんです」という提案を持って行って(新書朗読をやる前のことでした)、山口さんの答えが「仏教と当事者研究」プロジェクトにおいでよというモノだったので、振り返ればもはや天才としか思えません。当時は正直「?」と思ってましたが、振り返ると見事に蛇行しながらも一直線に繋がってる。あのとき信じて良かった。

提案をすれば応えてくれるのが、應典院との付き合いが長く続く大きな理由だと思っています。提案しないと放置してくれるのも、程よい距離感。


そうした対話の時間と、ボクたちの本番に足を運んでいただいたり(それも何度も!)、昨年のコモンズフェスタでのグリーフタイムに立ち会わせていただいたり、交流も重ねて、ほんとにフワッとした気運が高まっていきました。

個人的には、こんな人間関係を結ぶことができたのは初めてのように思います。
だいだいが実務肌で、常に『ゴールと目標』を持って動く方なので。


契機は、先ほども書いた『いのちと出会う会』でした。

そこで、「グリーフタイム」のワークとして、ちぎり絵などで参加者がつくられる「グリーフカラー」を回覧していただいたのですが、その一枚一枚には言葉が添えられています。

それに唐突に、『あれ? これ、「手紙供養』のパフォーマンス・スキームにピッタリなんちゃう?』とひらめいたのです。

「手紙供養」と勝手に名付けてますが、2013年の東日本大震災2周年にあたる3月11日に應典院で開催されました、催しで、「彼岸」にいる「あえなくなった、あの人へ」の手紙を書いて應典院に送ってもらい、お焚き上げで供養するという企画の中で、お焚き上げだけじゃなんなんで、ということでご依頼いただきまして、その手紙たちをテキストとして場をつくったモノを言います。

もともと読まれることを前提にしていない、まったくプライベートな「言葉」と向き合うのに、随分、アタマをひねりまして、【一切の解釈を排除する】という演出に至ったものです。

普通の舞台作品ですと「解釈」は欠かせない、というか大前提なんですが、個人のまったくのプライベートで、なんなら秘したいような「言葉」を、「解釈」によって切り刻むのは違うんじゃないか。「解釈」の度合いで悩むくらいなら、いっそ、一切の解釈を排除するべきなんじゃないかというところに至ったのでした。

そして、読み上げる俳優もまた、自ら感じたものを「声」にしていく。かなりプライベートな部分で向き合わないと、むしろしんどくなる。「私の解釈は合ってるのか?」で悩むくらいなら「私の受け止めはこうである」というところに明確に立脚したときに、初めてその言葉を書かれた方の立ち位置に対して、真摯に向き合うことができるのではないかという、舞台でした。

会場に配置された「言葉」(モノとして紙)を、思うままに歩く俳優が偶然出会い、「声」にしていく。

そのむき身の「言葉」と「声」を、應典院のご本尊そして住職の読経が、受け止めてくださる。

平日昼間の公演でしたし、お立ち会いいただいた方は少なかったのですが、大きな反響をいただきました。

というか、長年、その場にいらっしゃった方から「あれは良かった」「あれはすごかった」と言い続けていただきまして、やったボクらが思う以上に、心の中に残していただいていることに嬉しくなる舞台でした。

そのとき参加してくれた俳優さんたちも感じるところが多かったようで、5時くらいから打ち上げを始めたんですが、結局、終電まで話が尽きないという、なんとも心に残る舞台でした。

が、なにせお焚き上げしちゃうものですから、ほんとに1回限りの宿命でして、もうできないんだろうなーって思っておりました。


そこに、「あっ!」と思ったのが、グリーフカラーでした。

そうなると、色々、色々、やりたくなりまして、早速、企画書を書き上げたのが、『グリーフタイム×演劇×仏教』です。


やはり、應典院でやる以上は伝統仏教がグリーフ・ケアに果たしてきた想いや役割も聞きたいですし、グリーフの基礎知識も教えてほしい。

とかとかで、宮原さんと佐脇さんに相談して、應典院の秋田住職に相談して、丸1日の催しとして立ち上がりました。

近々発表できると思うんですが、「グリーフケアとしての伝統仏教」には、意外なゲストもお招きしますよー!(早く言いたい)


という全体像のあらましのもと、ボクたちの舞台である『悲しみのための装置2018』です。

上述のようなパフォーマンス・スキームですので、とてもザックリした言い方ですが、感受性というか、受信感度の高い俳優さんが望ましいワケです。

もちろん、今回、ブッキングした方以外が受信感度高くないとかいう話ではなく、諸々の条件下で、かなり贅沢な布陣となりました!

河上由佳
諏訪いつみ
西原希蓉美
みず
原 典子
是常祐美(シバイシマイ)
大江雅子
中野π子(May)
島原夏海(無名劇団)
湯山佐世子
藍原こまき
牛嶋千佳(コトリ会議)
石田麻菜美(遊劇舞台二月病)
丹下真寿美※
竜崎だいち(羊とドラコ)※
秋田光彦(僧侶)
(※…11:20のステージのみ出演)


満月動物園は初めましての方もたくさんいらっしゃいますし、竜崎さんと丹下さんをマチネだけでもとムリにお願いした理由とか色々あるんですが、今日のところは『秋田光彦(僧侶)』というクレジットをさせていただくのが、3度目だってことに触れます。

秋田住職もお忙しい方なんで、毎回「これで最後かも」と思うんですが、2004年の「庭園楽曲」、2013年の「手紙供養」に続いて、3度目です。

住職の読経を聞いたことのある方もない方もいらっしゃると思うんですが、いいんですよ。なに目線か分かりませんが、いいんですよ。

普段の法話も胸に来るんですが、読経が好きです。最初の「庭園楽曲」のときは、お客さんに読経と法話を聞かせたいので出てくださいとオファーしたんです。

應典院で聞くとまた格別です。

結果的に、1/21は「公演」「シンポジウム」「公演」と住職に大車輪で活躍していただく1日にもなってしまいました。

とまあ、まだまだ色々あったりするんですが、「悲しみのための装置」というタイトルへの思い入れとか、「手紙供養」を発案された陸奥さんとのこととか、色々あるんですが、ずいぶんな長文になった気もするので、今日はこんなところで。

とりあえず、1/21は一日あけといてくださいm(_ _)m

勝ち方 [日々のこと]

同じ日に別のところで同じキーワードに触れて、なんだか唐突につながったことがある。

ひとつは應典院の秋田光軌主幹のツィート。




もうひとつは、なんとなく読んでいたWikipediaで、鈴木貫太郎(終戦時の首相)の項。

海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣された折に、教え子に吉田茂がいた。吉田は鈴木の人柄に強く惹かれ、以後も鈴木と吉田との交友は続き、吉田の総理就任後も鈴木に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、「吉田君、俎板の鯉のようにどっしり構えること、つまり負けっぷりをよくすることだよ」などと言ったことを伝えていたと言われている。 https://goo.gl/smmR2U


キーワードは「負ける」。

光軌主幹は「悲惨な事態」や「何気ない気持ち悪さ」に対処する一つの処方として信仰(の所作)を挙げ、それは「神仏に率先して負ける」ことだと言う。

鈴木貫太郎は吉田茂に総理としての心構えを「負けっぷりをよくする」ことだと説いた。

吉田茂が「よき敗者」を標榜していたことも思い出す。

吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。 https://goo.gl/GgJkmy


勝手な解釈だけど両者に共通すると感じるのは、負け方を知らなければ、本当のところ勝ち方を知らないのと同じだと言ってるように感じた。

連想したのは、負け方を知らない常勝将軍が敗北していく滅びの物語は得てして「面白い」ということ。アタマによぎったのは「華麗なる一族」(山崎豊子)だったけど。

そして、両者の説く「負け」から瞼の裏に浮かぶ「負け姿」が、とても凛としていることも共通しているように感じた。

一敗地にまみれる。というような表現からは遥か遠くにある「負け」だと思った。

自分の努力ではどうしようもないことがあるということに、初めて気が付いたときのことを思い出した。

あのとき、凛と負けていられただろうか。

今は、凛と負けているだろうか。

本当のところ、勝ち方を知っているだろうか。


誇りを継承する [日々のこと]


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『誇り』って言葉に不意打ちをくらって、ブハっと涙が出た。誇り。誇り持って生きたいですねぇ。

タカタの倒産(でいいのかな)のニュースで創業家社長がついに被害者に対するお詫びの言葉はなかったというのがあった。『誇り』は継承されなかったのだろう。

イメージだけどトヨタの豊田家では『誇り』が継承されてるような気がする。イメージだけど。豊田家に知り合いいないし。

なにかを継承しなくちゃいけないならば、継承すべきは『誇り』なんだろうなぁと、不意打ちくらって考えこんだ。

資産とか技巧ではなくて『誇り』。

タカタとかトヨタとかからは一気にミニマムなんだけど、卑近では劇団内の先輩後輩間の継承でもそうなんだろうと思う。

今、年齢的に先輩から継承し、後輩に継承していく立場にあるのを感じていて、ブハッと涙出てから、なんか考えこんでしまった。




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