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そんなもの [日々のこと]


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なんのことはない思い出ばなしなのだけど、最初に読んだ小説は松本清張の『徳川家康』でした。小5のときに、学校から帰って何の気なしに父の本棚からとって、そのまま夕飯までに読んでしまった。

写真の文庫本がそうなんだけど、そのときからカバーはなかった。なんで手に取ったのかも覚えてないけど、父の本棚があった客間にごろんとなって読んでたときの夕日を覚えている。

面白かったと伝えると、読了したこと自体を驚き混じりに褒められて、「そんなものか」と思ったことと面映さも覚えている。「そんなものか」というのは、読めないと思われていたのかということ。まあ、そんなものだろう。

晩年の父は寝たきりのようになっていたけど、妙に感情の起伏が激しかった。たまの帰省に会うだけのことであったけど、単に老いと頭の片隅に片付けていた。

最近、腰をいためやすくなっていて、気を抜いて養生を怠ると立てないほどに痛くなることがある。先日もそのような腰痛になってしまい横になっていると、妙にツマの物言いがカンに触る。

はたと晩年の父を思い出した。身動き取れないとは、なかなかにプライドを挫くものだ。知らず気持ちが角張っている。しかも、心細く気弱に引かれてもいる。心の働きを分析するクセは演劇をし続ける習い性のようなもの。

そのようなことであったのかと、改めて父を想った。まだまだ「そんなもの」だ。

結局、緊張感をどうつくるのか [日々のこと]


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今日はエンゲキのヒトじゃないヒトと、エンゲキの話をする機会があって却って自分の考えに気づかされることがあった。

エンゲキのヒトじゃないヒトは、意外にエンゲキの即興性に注目してたり期待してたりするんだなぁ、と。

あ、ワークショップ的な文脈での話でした。

その話題の中で、ボクは即興性を可能な限り排していく中で、即興性によってしか生み得ないものに到達できる、というような考え方をしているのだと気づいた。

「表現における即興性」と「出たとこ勝負」は違うでしょというのが近い。なので、「真の即興性」(なんて、気恥ずかしい言い回しだ!)に到達するには、即興性を排していくしかない、と思っている。

「即興演劇」とか「インプロビゼーション」とかの表現を否定してるんじゃなくて、それはボクがやることではないなーってだけ。

即興性を排せないでいると、それは結局、「今を生きる」ことに全力を注げないことになって、セリフだ、動きだ、ひどいときには解釈まで即興に委ねるハメになる。
「今を生きる」は「真の即興性」と置き換えていい。気恥ずかしいが。いや、そんなん言ったらどっちも気恥ずかしいな。

なにかを固定しないと、ほかの何かの自由を担保できないと考えているのだと思う。昔は不確定性原理になぞらえて説明したりしてた(理系)。まったくの自由は不自由だ。

誰に押し付けるつもりもない、自分の考えというだけのこと。結果が美しいなら文句をつけることはない。

いや、「即興」のワークショップは、俳優向けならともかく一般向けにはボク出来ねーなー、引き出しねーなー、と気づいたってだけの話でもあるんですけどね。

確実にすぐにどうでもよくなる [日々のこと]

「いい人」だから広告塔になるんであって、【宗教】の側も困ってるんじゃないかという気もしないでもない。今さら『悪名は無名に勝る』でいかなあかんほどに「駆け出し」でもないワケやし。

清水富美加の話だ。

「ペテロの葬列」で初めて観て、ちょっと応援してたので、これから観れなくなるのなら、少し残念、という程度なんだけど。

【宗教】の側から出てくるコメントが、どうにも「しゃーないわ」的なニュアンスが漂ってて、戦闘的な気配がしない。なんか、被害者しかいない話のように見えなくもない。

報道によるとあと3ヶ月で契約切れだったとのことで、なら、そのあと出家でもなんでもした方が、丸く収まるわ宣伝になるわ、なんなら【あの党】から出たりしたら良かったんじゃね? と思わなくもない。

【真相】は藪の中で、そのうち自分も忘れてしまいそうな気がするのだけど、なんか今回のは【宗教】の側を責めるのは酷という気配を感じるのだけど、どうだろう。。。

崖をわたりはじめる [日々のこと]


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笹川未希×西原希蓉美ふたり舞台『崖をわたる』の稽古が始まりました。新劇団員、笹やんのために久しぶりにガッツリ基礎練から。

満月動物園には長らく“達者”な方にばかり出ていただいているし、基本的指導が必要な俳優さんと向き合うの自体が久しぶりで、どんなんやってたっけなぁと思い出し思い出し。

笹やんはガッツあるし、謙虚だし、目が強いし、足りないのは『場数』だけだと思うし、いずれステキ女優さんになると思うのだけど、その「いずれ」を伴走することになった。

希蓉美ちゃんもセンスと勘の良さがピカイチで、だからそれだけでやってこれたところがあって、いい機会なんで一緒に基礎練をみっちり。

しかし、謙虚さほど人を伸ばすものはないよね、と改めて。まあ「自分いけてる」と思ってたら伸びないのは当たり前か。自分にも戒め。

かといって「自分いけてる」と思ってる人に「お前がいかにいけてないか」を話すのも億劫極まりないし、「自分いけてる」と思ってる人はだいたい愚痴しか吐かないのでそれを聞くのも億劫極まりない。

今日は身体の使い方、言葉との距離の取り方、と最初の最初から。基礎練と言っても肉練とかは、ボクがキライなのであまりやらせない。向上心があるなら勝手にやればよろしい。と思いがち。だいたい、どんな気持ちで見てたらいいのか分からない。

戯曲の読み方とか座学的なことは後回しにして、まず立てるように。学生劇団あがりなので(遠い昔だけど)、新人にはとにかくまず新人公演をという発想にどうしてもなってしまう。

アタマでっかちになるより、身体動かして実際にやった方が速いし分かりやすいと考えがち。やってから、その意味を考える、という手順を取りがち。

専門学校で演技の講師をしてたときは結局どうにもやる気が削がれて「向いてないなこりゃ」と思ったものだが、劇団員のためなら知恵もやる気も湧いてくるのが不思議。

しかし、腹式呼吸の指導なんて何年ぶりかと思い出せない。

けど、吸収速い速い。単に新人公演というだけでなくて、しっかりと作品づくりの段階まで踏み込めそうだ。今は、その地歩がため。一歩一歩。

このあと、行ったり来たりしながら徐々に良くなっていくのだろうけど、とりあえず、今日の稽古初日は期待の持てるものでした。

いやー! 面白い舞台になると思うな!



郷土愛とは無関係に [日々のこと]

たいがい田舎育ちではある。県庁所在地の出身なので、田舎の中の都会と言えなくもないが、でもまあ、田舎だ。

の割に、ボクの書く作品は基本的に「都市」が舞台になることが多い。明示的でなくても前提として都市居住者を描くことが多い。

というか、田舎を舞台にした作品を書いた覚えがない。なんか、あったかなぁ…?

ひどくザックリと自己分析をすると、孤独を前提にしているのだと思う。肩寄せ合わないと生きていけない場所を前提にしていない。

孤独を前提に「絆」を描いたりすることはある。前提は前提でしかないので、孤独自体を取り扱うことは、まずない。

まあ、なんていうか。。。ひとりが好きなんでしょうね。なんで、ひとりじゃ出来ない「演劇」なんかやってるんだか。

結局、死んでいくとき、意識の途切れる縁(ふち)、ソコが果てしなくひとりだろうという思いがある。

死んでしまったら極楽とか地獄とか賑やかそうなところがあるとも聞くものの、この縁(ふち)だけは、確実にひとりなんじゃないかと思っている。

阿弥陀さまが迎えに来てくれるという説も聞くものの、天使が両脇抱えてくれるという説も聞くものの、それって縁(ふち)の「こっち側」の話なのか? とも思う。

なんの話かよくわかんなくなっちゃったな。

都市寺院のあり方を考え続ける應典院と相性が良いと感じるのも、その辺にあるのかもしれない。田舎育ちの都市居住者のあり方を考え続けているのかもね。

人並みに郷土愛とか地元好きとかいう気持ちはあるものの、地元を舞台に書くことは多分、ないんだろうなぁと、ふと思ったって話でした。

大江健三郎先生ほど思い切られへんし。(「飼育」で、地元のことをコテンパンにこき下ろしてるとかなんとか)

ノーベル賞作家と比べるのもどうかと思うが。

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